食卓での成功体験から 管理栄養士の道へ

▲競技力向上に繋がるメニューなどを実際に調理することができる「RecO STUDIO」
私の専門は「スポーツ栄養学」ですが、その原点は子ども時代にあります。地域の少年野球チームのコーチをしていた父は料理好きで、週末の食卓にはいつも父の手料理が並んでいました。当時は男性が料理をするのは珍しいことでしたが、私にとっては性別関係なく料理をすることは日常の風景だったんです。私が料理を作った時にも父は「おいしい」と褒めてくれる。そんな成功体験が積み重なり、料理や栄養に関わる道も自然と視野に入ってきました。
そこで管理栄養士を目指し、4年制大学へ進学。卒業後は家電メーカーに就職し、電子レンジなど調理家電を使った料理教室の講師やメニュー開発を担当しました。お客さんを前に話をしながら、見せながら料理できる力を磨けたことは、その後の活動の土台につながったと思いますね。
そして3年ほど勤めた頃、転機が訪れます。エアロビクスが流行り、日本にフィットネスという概念が広まり始めたのです。今でこそジムに通う人も多いですが、当時はまだ目新しいものでした。その時私は「トレーニングやフィットネスがブームになるなら、栄養面からのサポートも必要になるはず」と勝手に考えました。
スポーツの現場で学んだ 選手たちに必要な〝食〞

▲RecO STUDIO

▲シドニーオリンピックでの経験と学びをまとめ出版した『野球食』
最初に入ったフィットネスクラブではエアロビクスのインストラクター養成コースに通いながら、管理栄養士としてダイエットコースを担当しました。やがてフィットネス業界が拡大するなか、フィットネスクラブの経営、人材派遣に関わる会社に転職。社長は元アメリカンフットボール雑誌の編集長で、アメリカからウエイトトレーニングの概念を日本に持ち込んだ先駆者でした。そこでは栄養士の知識をいかに面白く伝えるか、原稿執筆のトレーニングもさせてもらいました。
その後、社会人野球チームの栄養指導を担当した際には、選手と一緒に坂道ダッシュやキャッチボールをするところから始めました。バスケット経験しかなかった私は硬式球の重さや硬さをおでこのコブで知りました。筋肉痛も経験しました。でも選手と同じように汗を流すことで、少しずつ信頼関係が育まれました。さらに女子バスケットやソフトボールのチームでは、「食事の質は料理だけでなく、人間関係でも決まる」と気づきました。作り手と食べ手の距離が近いほど、食事の質はぐんと高まります。
そして2000年にはシドニーオリンピックの予選から野球日本代表チームに帯同。プロとアマが混在するチームで様々な選手がいることを目の当たりにし、「食を含めた日常の習慣が、選手の未来を分ける」と強く感じました。こうした経験と学びをまとめたのが『野球食』という本です。『野球食』は、食べさせられるのではなく、球児自らが考え、地域の食材を活かしそれぞれの環境に合わせた食生活を実践するための「野球道具」として作った本です。2001年に出版した著書ですが、今でも読んでくださっている方がいるのは嬉しいですね。
スポーツ栄養学の枠を越え 社会にその知見を活かしたい
その後、国立スポーツ科学センターでオリンピック強化選手の栄養サポートに従事し、2010年より立命館大学へ。現在は『「食×スポーツ×地域」で未来をおいしく』をテーマに、スポーツ栄養学をどう社会に活用するか考えています。例えば熱中症対策や一人暮らし世帯の食習慣づくり、高齢者のサルコペニア(筋力低下)予防など、応用できるフィールドは多彩です。
私はもともと神奈川県出身ですが、滋賀県に拠点を移してから地域との関わりも深くなりました。今年の国スポ・障スポでは「おもてなし弁当」の作成に関わらせていただきました。レシピを県民から募り、入賞した料理を盛り込むことで、華やかに滋賀らしさを表現する試みとなりました。アヤハさんのオータムフェスタのお弁当監修もその一環ですね。滋賀には貴重な食材や食文化が盛りだくさんです。よく地元の方から「地味でしょ?」と言われますが、「滋賀の地味」こそ「滋味」。他にはない価値であることを、私のような外から来た者がワクワクしながら、県内外に発信することも使命だと思っています。
また6年前には闘病を経験しました。辛い治療中はなるべく「口から食べ続けること」を心がけました。これまで言ってきた事を自分自身で実践する機会となり、新たな発見がたくさんありました。その経験も糧に、これからも「食べることのチカラ」を社会に届けていきたいと考えています。皆さんにとって、今年のオータムフェスタが、自分にとっての「動くこと」「休むこと」そして「食べること」の心地よいリズムを発見するきっかけになれば、嬉しいです。
(2025年8月取材)