九州で書道を習い始めたのは6歳、近所の書道教室に通っていました。最初の半年間は、半紙に漢数字の「一」のみ7つ書かされ続ける毎日。「手で書くな、身体で書け」と厳しく指導されましたが、そのなかにも温かい愛情を感じ、認められた時の喜びが大きかったことを思い出します。その後、進学した高校で出会った創作書道の先生は、3年間で1枚もお手本を書いてくれませんでした。しかし自分が教師になった時、考えに考え抜かれた指導だったとわかりました。創作は自分の心から湧き出すものを書くもの。「書道ってこんなに自由に書いていいんだ!」という衝撃が、今の自分につながっています。書師としての私があるのは、この2人の恩師のおかげです。
大学進学を機に生まれ育った福岡県から滋賀県へ移り、19歳からは師につかず独学で書を続けてきました。そして小学校教諭を経て、1998年から書師として活動を始めました。どの作品にも生みの苦しみと、それをはるかに越える歓びがあります。6歳から何万枚と積み重ねてきた、そのうえの一枚。一つひとつの点が線になってくる年齢になるとわかります。人生に無駄なことは何一つないことを。良いことも悪いこともすべて役に立つ日がきます。「自分は社会でなにができるのか。」日々、書師として自分に問いかけます。
書師とは、自分で名付けた志です。辞書にも載っていません。江戸時代の浮世絵師が職業として描いたものが400年経った今も愛され続けているように、私も「書師という職人として書いていきたい」という志です。しかし最初は自信がありませんでした。日本人なら誰でも筆を持ち、漢字を書くことができる。書の仕事をいただきながらも、「自分の書が人の心の役に立つのだろうか」とずっと悩んでいました。
そんな私を救ってくださったのが、東日本大震災で甚大な被害にあわれた宮城県女川町の皆さんです。3年ほど被災者の皆さんの想いを書にする活動をさせていただきました。これまでお話して書を書かせていただいた方は300人。おじいちゃんのお位牌やお写真を津波でさらわれ、毎日何に手を合わせたらいいかわからないと涙を流されたおばあちゃんには、おじいちゃんそのものの「心」と書かせていただきました。また震災前から重い難病にかかっておられた方には「〝無〞と書いてほしい」と頼まれました。しかし病状が進行していくなかで〝無〞なんて書けません。私が小さくつぶやくと、「違うんです、新しいスタートの覚悟としての〝無〞です」と言われ、涙でぼやける視界に「無」を書きました。お一人お一人が涙を流して、前へと向く書ができたと喜んでくださったことが、今の自分の背中を押してくれています。書師として、「一隅を照らす」。これが私の書師としての生きる糧となりました。
私の書は、言葉の持っている真実の意味や深く込めた人の想いを書くもの。目に見えないものを大切に、自分のためではなく、人の役に立つ書を目指したいと考えています。屋号などを依頼された時は、現地に足を運び、依頼者と言葉を交わしながら、10年後、20年後の繁栄を願いながら筆を持ちます。相手の想いのためだけに書く文字だから、書体も表現もどれひとつとして同じものは生まれません。
今、自分の歩みを振り返ってみてようやく、人生は思い通りにいかなくて当たり前だと思えるようになりました。だから〝今を一生懸命に生きることでいい〞。皆さんが会社に行って上司に叱られたり、成果が出て喜びを感じたりする日があるように、私も同じです。書けなくて、書けなくて、自分には才能がないと泣けてくる日もあります。でも悩みがあるから、誰かの役に立ちたいとまた筆をとるのです。 言葉は人を生まれ変わらせる力を持っています。その言葉を書く芸術が書。そして私の書師としての仕事は「心に生きる力を与え、心を癒す書」を生み出すことです。書の本当の美しさは、形ではなく相手を想う心に宿るもの。そう信じています。