いかいゆり子さん
|
近江文学研究家 いかいゆり子さんを訪ねて
奥深い歴史や文化が息づく滋賀各地を訪ね
『近江のかくれ里』を出版された、いかいゆり子さん。
近江の魅力を伝えるべく執筆に講演、旅行ガイドと多彩に活躍されています。
その活動について、またどんな思いに突き動かされてきたかを伺いました。
いかいゆり子さん
住所:滋賀県湖南市岡出2-3-21
電話:0748‐77‐4481
|
白洲正子が惚れ込んだ、近江の美に魅せられて
近江が秘めた魅力を私に教えてくれたのは、1冊の本でした。40歳過ぎ、
滋賀県内の国語教師が集まる研究会に参加したときです。講演された神戸大学の先生が「皆さん近江の方だからご存知でしょう」と、
随筆家・白洲正子さんの『かくれ里』を取り上げられたのです。
この本は、街道筋から少しそれた村里に美しい自然や信仰に守られた神秘の世界が存在する─と、
白洲さんが滋賀や吉野などの小さな集落や古社寺を訪ね歩き、豊かな教養とみずみずしい感性を交えて歴史や伝承、
習俗について書き記した紀行文集です。
私は生まれも育ちも滋賀で、進学した大阪の大学にも電車で通い、卒業後は国語教師になりました。故郷を出ることなく暮らしてきたのに、
こんな本があるとは知らなかった。読むほどにかくれ里に心惹かれ、いずれはその地を巡って記事を書き、滋賀の人々に知らせたいと夢を持ちました。
それから12年、子育てに切りがついたこともあり教師歴30年で退職しました。心配したのか、息子が「辞めてどないすんねん」と聞いてきたんですね。
その言葉でふっと、胸の奥にあった夢が呼び覚まされたんです。書きたい、伝えたいと強く思い始めてしばし後、「意志あるところに道あり」を実感することになりました。
かくれ里をたどって追体験、さらに新たな発見も
|
▲2011年8月出版「近江のかくれ里」と2015年4月出版の「近江の芭蕉」
|
記事を書く場として念頭にあったのは、滋賀県の文化を紹介する季刊誌『湖国と文化』でした。
知人に相談したところ編集長に企画書を送るよう勧められ、思いの丈を綴って提出しました。
すると嬉しいことに連載が決まったのです。
かくれ里を訪ねる日々が始まりました。
まずは甲賀市の油日神社へ。取材の仕方もよく分からない私に、宮司さんは気さくに応対くださり、
撮影の手伝いまでしてくださいました。次の櫟野寺ではご住職が8歳のときに父親を亡くされ、
ご苦労があったようです。ご住職のお母さんは「檀家さんの支えで今があります」としみじみおっしゃっていました。
かくれ里そのものも素晴らしいけれど、それを自分たちの宝として守り続けてきた人たちも尊い。
そう気づいて、同郷の人間として誇らしく感じました。
長浜市西浅井町の菅浦も印象深い地でした。ここには奈良時代、皇位継承争いに破れた淳仁天皇が隠れ住んだ伝説があります。
淳仁天皇を祀る須賀神社は土足厳禁。地元の方から「中学生のとき悪さをして母に叱られ、神さんに謝ってこいと夜中に素足で参らされた」
と聞き、現代にも深く敬う気持ちが生きているのだと感銘を受けました。
連載は6年半続きました。原稿を毎回、読者目線でチェックしてくれた夫にも感謝ですね。
愛読者から本を出したらと背中を押され、2011年には『近江のかくれ里』出版にこぎつけました。
芭蕉にも愛された近江の良さを、今後も広く伝えて
2009年からシニアの学舎である滋賀県レイカディア大学の講師になり、近江文学の担当に。
「おくのほそ道」の講座を開く際は、松尾芭蕉が歩いた東京の足立区千住から岐阜の大垣までを2年かけてたどりました。
松尾芭蕉は近江との関係が深く、9度の滞在で102句を詠んでいます。滋賀に残る句碑を訪ね歩いて、
2015年には『近江の芭蕉』を出版しました。
現在は学生さんを前に講演したり、旅行ツアーのガイドを務めたりも。原動力になっているのは、
皆さんにも近江の良さを発見してほしいという願いです。近江のすばらしいものが滋賀の人はもちろん、
全国の人々にも知られるよう力になりたいんです。
あれこれ活動してバイタリティがあると言われますが、私は実現したいことがあれば迷ったりためらったりせず、
とにかくやってみます。やってダメならそのときやめたらいいんです。
講演で若い方に言うのは、私は40代で持った夢を20年後に叶えたということ。
今心にぽっと灯っている夢があるのなら、捨てずに持ち続けてほしい。「念ずれば夢叶う」ですから。
同年代の方にお伝えするのは「過去は引きずらず未来は思い悩まず」、くよくよせず下の世代の見本になるよう生きましょうと。
私自身も今のような活動をできるだけ続け、
10年後ぐらいには近江の文学と言えばいかりゆり子と名前を挙げてもらえるようになったら良いなと思います。
(2016年11月取材)
取材協力:ハーブガーデンカフェ 光の穂