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琵琶湖発人間探訪

粟田純司さん
粟田純司さん
穴太衆積み(あのうしゅうづみ)石匠 
粟田純司さんを訪ねて

 今回は、石垣を積む独特の方法として長い歴史を持つ「穴太衆積み」の石匠・粟田純司さんに、職人として未来に馳せる想いを聞いてきました。

粟田 純司  あわた じゅんじ
1940年生まれ。株式会社粟田建設 取締役会長
平成元年 第14代穴太衆積技術継承
平成12年 卓越技能賞(現代の名工) 労働大臣
平成17年 黄綬褒章 内閣総理大臣
平成24年 選定保存技術保持者 文部科学大臣

何百年もの風雪に堪える穴太衆積みならではの技

 穴太衆積みとは、自然石をそのまま積み上げる「野面積み」を代表する積み方です。 一見粗野に見えますが、強度には比類なきものがあります。戦国時代、 織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした際、その石垣の堅牢さに驚き、坂本・穴太・ 滋賀里あたりに住んでいた石工職人たちを集めて安土城を築城したほど。 職人たちはそれ以後「穴太衆」と呼ばれ、 大阪城や江戸城などの築城も手がけて全国的に知れ渡る存在になりました。 現在、全国にある8割以上もの城の石垣が、穴太衆たちの手によるものだといわれています。
 何百年もの風雪に堪えうる堅牢さの秘密は、積み石の比重のかけ方にあります。 石は横長方向に使って上からの荷重を大きな底辺で支え、 表面から1/3くらい奥のところに重力がかかるように設計します。 また土の水ぶくれによる崩壊を防ぐため、石垣の奥に小石をつめて排水をよくするなどの工夫もこらしています。穴太衆積みには細かな設計図はありませんが、頭の中で石の配置を思い描きながら組み上げていくのです。

傲慢だった考えが謙虚に 穴太衆積みが人生観を変えた
▲竹田城では重機が上げられずに、二又を使っての修復工事となりました

 私の家は代々、穴太衆積みの技術を継承してきた家系で、 13代目の父は人間国宝として活躍しました。私も中学や高校時代には家の仕事を時々手伝ったものです。 しかし家業を継ぐことには迷いがあり、とりあえず大学で土木工学を学ぶことにしました。 卒業後は県庁に就職し、10年ほど勤めてから継ごうと考えていたら、 父から「この仕事は一人前になるまでに最低10年はかかる。 10年後から始めたらもう頭が固くなって仕事を覚えられない。今からやりなさい!」 と一喝されまして。最初は渋々とこの道へ入ったというのがいきさつです。
 修行を始めた当初は、大学で学んだ近代土木の知識を活かしたい私と、昔ながらの職人気質の父とで、 よく口論もしました。粟田家には家訓として「石の声を聴き、石の行きたいところへ持っていけ」 という言葉があるのですが、未熟な私には意味がわかりませんでした。 ところが11年目の頃、安土城跡の修復工事をしていたときに、 どうしても目に留まる石があり、それを持ってきて据えたらぴたりと入ったのです。そのとき、 コトンという音が確かに聞こえました。石がOKを出してくれたのだと思いましたね。 それまで私はメジャーで石のサイズを測り、ノミで削りながら収めるというやり方をしていましたが、 石の声を聴いてからはメジャーを一切持たなくなりました。 そして仕事以外の場でも、まず相手の意見を聞くという謙虚さを持つようになったのです。


穴太衆積みの技術を国内外へと広く発信

▲アメリカのシアトルでのワークショップの様子

 かつて全国にいた穴太衆たちは衰退し、穴太衆積みの技術を受け継ぐのは私たちだけになりました。 今では城など文化財の修復が仕事の大半ですが、それだけでは先細りしていくため、 現代建築のなかにも穴太衆積みを活かす取組みに力を入れています。例えば、 滋賀県立大学のキャンパス内の庭、大津市にある「ピアザ淡海」の玄関、 新名神高速道路の護岸壁などに穴太衆積みの石垣が採用されました。新名神高速道路工事の際には、 穴太衆積みとコンクリートブロックを比較する強度計算を行ったのですが、 なんとコンクリートの1.5倍〜2倍の強度があることがわかり、関係者たちを驚かせました。 また数年前からはアメリカやドイツなど海外で石を扱う彫刻家や庭師を対象としたワークショップの開催、 アート作品として展示する試みを始めています。今後、若い職人たちに穴太衆積みを継承していくために、 さらに活動の場を広げていけたら面白いですね。


(2015年8月取材)
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