若山 義和さん
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唐橋焼窯元 若山 義和さんを訪ねて
今回は大津市瀬田の唐橋にある創作陶芸 唐橋焼窯元で活躍される若山義和さんにお話を伺いました。
有限会社 唐橋焼窯元 窯元本店
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陶芸との出会い
私は22歳の時に京都の製菓会社に入社して5年間勤務しました。
そこでは多くの人との出会いがあり、学ぶこともたくさんありましたが、
「ものづくりの技術も商品の企画や宣伝についても、自分はプロフェッショナルではない」
と感じるようになっていました。
そんな時、信楽焼の工房を経営していた義父から「陶芸の道に入らないか」と誘いを受け
ました。見学をした当時、信楽では後に私の師匠となる義兄が大阪万博の『太陽の塔』を制作しており、
その作品の大きさに驚くと共に、制作工程ではまさに人と土が格闘しているように見えました。
この光景を目にしたことがきっかけとなり、私は陶芸家としてその道を極める決意をしました。
その後16年間は『信楽焼』と、八日市の『布引焼』の技術を学ぶと共に、商品の物流や販売の手法について勉強しました。
そして平成元年の3月、両親が営んでいた食料品店を改装し、この唐橋の地で築窯しました。
開業当初、何よりも嬉しかったのは地域の人々や中学、高校の同級生達が応援してくれたことです。
その応援がなければ、現在の唐橋焼はなかったと言っても過言ではありません。
唐橋焼の誕生
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▲目を閉じて夢を育むと言われる フクロウがモチーフの唐橋焼 |
唐橋焼は、私が創ったオリジナルのブランドです。
私の生家と築窯が琵琶湖の流れ口に当たる瀬田川の『瀬田唐橋』のたもとなので、
『唐橋焼』と名付けました。
以前から「独立して焼き物をしたい」
「今までにない、自分ならではの”新しい色“をつけたオリジナルの焼き物を生み出したい」と考えていました。
試行錯誤の末、鮮やかな琵琶湖の青を選びました。焼き物はその土地を表すと言われる通り、
まさに唐橋焼を手にした方に琵琶湖を思い浮かべてもらえるようにと考えたからです。
唐橋焼の青には特に色つやに強いこだわりを持っています。
もう一つの特徴として、フクロウを主なモチーフにしていることです。信楽焼はたぬきがモチーフであるように、
唐橋焼にも見て楽しめる、わかりやすいモチーフを持ちたいと考えていました。
そんな折、信楽町の職場まで車で通勤していた頃に、どこかから飛んできたフクロウとぶつかったことを思い出しました。
それだけでなく、たまたま八日市の森で真っ白なフクロウの雛を見つけて感動したこともありました。
こうした二度に渡る出会いに縁を感じ、フクロウをモチーフにしようと決めました。
当初は目を開いたフクロウを作成していましたが、もっと人に愛される形にしたいと考え、
平成3年からは”唐橋焼を手に取る人の夢を育ててくれるように“と願いを込めて、
目を閉じて夢を育むフクロウの形を創作しました。
ものづくりへのこだわり
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▲焼き上がりのチェック |
私はものづくりの上で大切なことは、「何のために造っているのか」という目的を考えながら取り組むことだと考えています。
これはものづくりに携わる全ての方に共通することだと思います。
私は「人に夢を与える」「潤い・安らぎ・感動を与える」ことをテーマに唐橋焼を創作しています。
ものづくりをしていて何より嬉しく思うのは、唐橋焼を贈り物として利用されたお客様から、
「贈った相手にとても喜んでもらえた」という声をいただいた時です。
自分の造ったものが人から人へ伝わり、「喜びの波」が返ってくる。
ものづくりをしている私にとっては、それが一番の喜びです。
私はフクロウに思いを込めて、作品を創り続けてきました。思いを込めて創作した作品が全国に広がり、
海外からもご要望をいただくようになりました。特に、
海外ではフクロウは『幸運の鳥』として知られているという背景もあると思います。
そうするうちに焼き物を扱う問屋からも声が掛かり、
焼き物の問屋からは商品を卸して流通経路に乗せるよう頼まれましたが、
すべて断わりました。
確かに大量生産して商品を流通させ、多くの方に唐橋焼を知ってもらうことも魅力に感じました。
しかし、私はお客様の顔が見える直売にこだわり、
まずは地域の方に知ってもらうことで「喜びの波」を感じたいと思ったからです。
唐橋焼ブランドの確立と夢の継承
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▲奥様のるり子さん |
私は唐橋焼の作家として自分の名前を売り、賞の獲得を目指すのではなく、
唐橋焼を多くの方に知ってもらうことに注力してきました。
唐橋焼が多くの人の手に渡り、唐橋焼のブランド力を高めることが、
私にとって何よりの賞だと思ったのです。
また、『唐橋焼』をブランドとして世の中にしっかり根付かせておけば、
私の後に続く者のためになると考えました。そのような考えから、
8年前には『唐橋焼窯元』を商標登録しました。
また、私は唐橋焼を通じて地域貢献がしたいと考えていました。
昭和63年に大津市の小学校から陶芸の指導を依頼されたことをきっかけに、
これまで市内の小学校や幼稚園に足を運び、卒業記念のプレート制作などを指導してきました。
これらの活動は地域の方に唐橋焼を知ってもらう良い機会にもなり、
昨年には『大津市文化賞』をいただくことができました。
唐橋焼の窯元は今後、私の次男が継承します。
これまで私は陶芸の伝統を受け継ぎながらも新たな唐橋焼を確立してきましたが、
そこは息子も自分なりに変化させたいと考えていることでしょう。
私がそうしてきたように、息子には唐橋焼の良い部分を守りながらも、
また新しいものを創作して欲しいと思います。
(2012年5月取材)